6月10日は時の記念日 ご家庭にある時計のメンテナンスを
2015/06/26

本日6月10日は「時の記念日」です
日本書記の記録から初めて時が刻まれたのは天智天皇の時代(671年)4月25日と言われています
その日を太陽暦に換算し、6月10日に定められました
この日をきっかけに引き出しの中にある腕時計の電池交換や、オーバーホールを考えてみてはいかがでしょう
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時の記念日の由来
6月10日は「時の記念日」です。天智天皇の10年(671年)4月25日、漏刻と鐘鼓によって初めて時を知らせたという『日本書紀』の記事にもとづき、その日を太陽暦に換算して、定められました。今日ではカレンダーを見ると実にさまざまな記念日が掲載されていますが、各種の記念日のなかでも時の記念日は最初期に定められたものということができます。
第1回時の記念日は大正9年(1920)のことでした。大正中期という時代背景からもうかがわれるように、衣食住をはじめ社会生活の近代化推進という当時の趨勢のなかで、とくに時間厳守、時間割による行動規律、時間を節約することによる効率性の向上が近代生活の基本として位置づけられました。そのようななかで、この年1月、伊藤博邦(博文の養子)を会長とし、渋沢栄一らはじめ政官界の有力なメンバーを役員として、文部省の外郭団体として生活改善同盟会という財団法人が組織され、生活改善運動を先導して展開することになりました。
同会は、その実行目標の第1項に「時間を正確に守ること」と謳い、文部省もそれに呼応して時間尊重の教育的意義を重視し、同盟会と文部省との共催によって、同年5月16日から7月4日まで、東京お茶の水の東京教育博物館(現在の湯島聖堂の建物 当時文部省直轄の博物館)で「時の展覧会」を行い、古時計・暦・天文関係資料、時間節約・作業能率化のための各種資料等を出展紹介しました。
天智天皇の故事ゆかりの6月10日を前後する時期に会期が設定されたとも考えられますが、その日を迎えるにあたり、東京天文台長の河合章二郎は記念行事を提唱し、「漏刻祭」を行って、時の大切さを宣伝することになり、続いて「時の記念日」の名称が決定しました。第1回時の記念日の事業として、東京市内小中学校で記念講話、天智天皇関係記念陳列、神社・寺院・教会・大工場で当日正午一斉に鐘鼓・汽笛等で時報、各新聞社説依頼等々が行われました。以来、時の記念日の行事は毎年継続されることになり、翌年の第2回から行われた「時の功労者」の表彰など、さまざまな行事が行われてきましたが その後、昭和15年11月、近江神宮が創建され(地鎮祭は昭和13年の6月10日でした)、翌昭和16年6月、最初の時の記念日当日、第1回近江神宮漏刻祭が行われ、絶えることなく現在に及んでいるのです。
引用元-−-時の記念日の由来|近江神宮
日本で初めて時を刻んだといわれる天智天皇
天智天皇(てんちてんのう / てんじてんのう、推古34年(626年)- 天智天皇10年12月3日(672年1月7日))は第38代天皇(在位:天智天皇7年1月3日(668年2月20日) – 10年12月3日(672年1月7日))。和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。一般には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)として知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「二番目の大兄」を意味する語。諱(実名)は葛城(かづらき/かつらぎ)。漢風諡号である「天智天皇」は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代に淡海三船によって撰進され、「殷最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けられたと言われる[1]。
引用元-−-Wikipedia
天智天皇が使われた漏刻ろうこく(水時計)とは
漏刻とは、水時計のことで、水が一定の速度で水海とよばれる壷に貯まり、水海の水位から時刻を測る時計のことです。
水の流入速度が一定になるように、夜天池、日天池、平壷、萬分壷の四個の壷を経て水海に流入し、 水海の箭が浮上して人形が指差すところによって時刻がわかる仕組みです。水海の水位は現在の時計と同様に昼夜の長さに依らず一定の速度で変わりますのでこの時代は定時法を用いたとの説がありますが、箭により調整していたかもしれません。中国では昼夜・季節により箭を48種も使い分けていた(文献1)ので、日本でも昼夜別に使い分けていた可能性があります(注1)。
このためこの時代の時法が不定時法なのか定時法なのか判然としません。(詳細ご存知の方、御教示下さい:メール)漏刻には、2人の漏刻博士がおかれ、守辰丁(しゅしんちょう)と呼ばれる20人の時守を率いて水量のチェックをし、鐘や鼓で時を知らせたとされています。
引用元-−-日本の時刻史 –時の歴史–
世界の水時計
水時計は、日時計と同様、(日にちを数えるために刻み目を付ける棒を除けば)おそらく最古の計時器具である[1]。その古さゆえに水時計がいつ・どこで発明されたかは不明である。ただ、日時計では夜間には使えないことからこれを補うものとして水時計は作られたと考えられている[2]。
水が流出する椀状の水時計は最も単純な型であり、紀元前16世紀ごろのバビロニアや古代エジプトには既に存在していたことが知られている。世界の別の地域、例えばインドや中国でも古くから存在していたが、最古のものがどの時代から存在していたかはよく分かっていない。しかしながら、水時計は前4000年には中国に出現していたと主張する研究者もいる[3]。
ギリシア・ローマ文明は水時計の設計を最初に進歩させ、精度を向上させたと信じられている(これらに使われた複雑な歯車機構は奇抜なオートマタへとつながった)。これらの進歩は東ローマやイスラム時代を経て、最終的にはヨーロッパで開花した。その流れとは独立に中国人も進歩した水時計を創り出し、それは朝鮮半島や日本へと伝わった。
水時計の設計には各地で独立に生み出されたものもあれば、貿易によって知識が伝播したものもある。公衆が時刻を知りたがるようになったのは、労働時間が重要になってくる産業革命が最初である。それ以前には、水時計の使用目的は天文学および占星術であった。当時の水時計は日時計を基準にして目盛りが刻まれていた。これらの水時計は弁護士が法廷で発言する時間や売春宿の労働時間、夜警の勤務時間、教会での説教やミサの時間などを計るのに使われた。今日の計時器具ほどの精度は得られなかったものの、水時計は1000年の間最も正確で最もよく使われる計時器具であった。その地位は、より高い精度を持つ振り子時計が17世紀のヨーロッパで発明されるまで保たれた。
エジプト[編集]
エジプト最古の水時計は、物的証拠から前1417年 – 1379年ごろ(アメンホテプ3世の時代)のもので、アメン=ラーを祭るカルナック神殿で使われていた[4]。水時計に関する最古の記録は前16世紀の宮廷人アメンエムハト(Amenemhet)の墓碑銘で、これは彼を水時計の発明者だとしている[5][6]。この時代の単純な(流出型の)水時計は、底近くに小さな孔の開いた石製の容器で、水面の降下速度をなるべく一定に近づけるべく下すぼまりな形状をしていた。内側には「一時間」を計るための目盛りが振られていたのだが、その目盛りは(不定時法に合わせた各月用の目盛りということで)12種類あった。カルナック神殿の水時計は、夜間、僧侶がしかるべき時刻に儀式を行うために使われた[7]。また、これらの水時計はおそらく昼間にも使われたと思われる。
バビロニア[編集]
バビロニアでは、水時計は流出型であり円筒状の形をしていた。天文学用の水時計の使用は、古バビロニア時代(前2000年頃 – 前1600年頃)にまで遡ると推定されている。[8]
メソポタミア地方からは水時計の現物が見つかっておらず、その存在の証拠として最も有力なのは粘土板に書かれた情報である。例えば粘土板集”Enuma-Anu-Enlil”(前1600 – 2000年)や”MUL.APIN”(前7世紀)に、水時計が夜警および昼の見張り人への給料支払いに際して使われたとある。[9]
これらの水時計の独特な点は、(今日の時計のように)指針があるわけでもなく(エジプトの水時計のように)目盛りがあるわけでもなく、表示機構を全く欠いていたことである。その代わりにこれの水時計は時間を「流出した水の重さによって」測定した[10]。その重さは、マナ(”mana”。ギリシャの単位で、約1ポンド)という単位で計られた。
バビロニア時代、時刻が不定時法によっていたことは重要である。つまり、季節が変わると日の出ている時間の長さが変わったのである。「夏至に『夜の時計』の長さを定めるため、円筒の水時計に2マナの水が注がれた。それが空になることは夜間の終わりを示す。その後、半月ごとに6分の1マナが追加されなければならない。秋分には夜の長さと合わせるために3マナの水が必要になり、冬至の夜には4マナが費やされる。」[11]引用元-−-Wikipedia
「時の記念日」に近江神宮で行われた「漏刻祭」2014年 -YouTube動画